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子の櫓跡 (ネノヤグラ アト)
北の郭北東隅の土塁上には、藩政時代を通して3層の櫓がありました。櫓の中には、武具の他に藩庁日記なども保管されていたと言います。 1906年(明治39年)に花火のため焼失してしまいました。
...詳細を見る本丸戌亥櫓跡 (ホンマルイヌイヤグラ アト)
城郭に取り付く敵を攻撃したり物見のために造られました。櫓下にあった番所の修復も行われたとされ、北の郭から櫓台下、本丸への通路がありました。
...詳細を見る籾蔵跡 (モミグラ アト)
4代藩主信政の生母である久祥院の屋敷がありましたが、1704年(宝永元年)以降は宝蔵や籾蔵が建てられはじめ、廃藩置県の頃には、いくつもの籾蔵が立ち並んでいたと言います。
...詳細を見る館神跡 (タテガミ アト)
館神は、2代藩主信牧が太閤豊臣秀吉の木像を御神体として安置した場所でした。ここへ出入りできたのは、藩主や神官やその家族など、ごく限られた人だったと言います。
...詳細を見る旧天守跡 /本丸未申櫓跡(キュウテンシュアト)
この地には弘前城築城当初、5層の天守がありました。しかしこの天守は1627年(寛永4年)、火事(落雷が原因とも言われています)により焼失してしまいます。
...詳細を見る御金蔵跡 (ゴキンゾウ アト)
1673年(寛文13年)の絵図面に記載が見られますが、1680年(延宝8年)に建設されたとも言われています。 1691年(元禄4年)には屋根が瓦葺であったと伝わっています。
...詳細を見る本丸井戸跡 (ホンマルイド アト)
籠城の際の生命線となる井戸の跡です。弘前城の絵図面によれば、本丸内にはこの他にも数か所の井戸があったことが分かっていますが、現在その跡が確認できるのはここだけです。
...詳細を見る御日記蔵跡 (オニッキグラ アト)
弘前藩庁日記と呼ばれる日記は、1661年(寛文元年)に4代藩主津軽信政の初入部以降、明治に至るまで綿々と書き続けられ、津軽藩政のみならず近世幕藩体制を知る重要な史料となっています。
...詳細を見る武者屯御門跡 (ムシャダマリゴモン アト)
長勝寺構の黒門と同様の高麗門形式で、門扉は2枚扉になっていたといいます。門の内側には番所があり、さらに門の両脇に袖塀があったことが古い写真からわかっています。
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