弘前藩から弘前へ。時代の移りと影響を与えた人物。
弘前藩の歴史や創立に関わる人物についてご紹介いたします。
津軽の歴史
津軽為信から信枚へと受け継がれた弘前藩
1590(天正18)年、大浦為信(後の津軽為信)が津軽地方の統一を成し遂げ、豊臣秀吉から津軽3郡の領有を認められました。4万5千石の領地を得た為信は1594(文禄3)年4月に大浦城から堀越城に移り、藩の基礎作りを始めます。
さらに1600(慶長5)年には2000余りの兵を率いて関ヶ原の合戦に参戦、その功績によって翌年にはさらに2千石を加増されました。
1603(慶長8)年には徳川幕府の成立とともに外様大名のひとりとして津軽領有を承認され、高岡(現在の弘前)に新たな町割りを行い、次々と領地の開拓を進め、城の築城を計画するに至ります。
その後、為信は高岡城の完成を見ることなく1607(慶長12)年に長男・信建の後を追うように58歳で病没、二男の信堅はすでに死亡していたことから3男・信枚(信牧)が為信の後を継ぎました。
信枚は1611(慶長16)年に徳川家康の養女・満天姫を正室に迎えて3年後の大阪冬の陣に3000余りの兵を率いて参加するなど、幕府と密接な関係を結んで藩政の基礎を築きました。
弘前の城下町と藩政の確立
1603(慶長8)年、為信は沼田面松斎に兵法、立地、陰陽五行の思想などから検討し、藩政の拠点となる築城の地を決めさせました。それによって選ばれたのが四方を4神が守護する四神相応の地である高岡、現在の弘前です。
1609(慶長14)年に幕府から築城許可が下り、
2代藩主・信枚が1610(慶長15)年から築城を開始しました。
その翌年には五層の天守閣を構える平山城「高岡城」が完成し、城下町の建設も進められました。
その後もさらに堤防などを築きながら成立した城下町は1628(寛永5)年に「高岡」から「弘前」へと改称し、近世都市として歩み始めます。
1631(寛永8)年に藩主・信枚が没すると、信枚の長男・信義が3代目藩主として弘前を治め、信枚の後を受けて藩政の創成にあたります。弘前藩の藩政、諸制度の確立は4代藩主・信政の時代に完成されたと言われています。
弘前を創り・支えた人物
津軽為信
津軽為信の出生に関しては伝説めいた話があります。
為信の父、守信は後継者となる男子がないことを憂い、岩木山に祈願しました。
その日の夜明け頃、夢に白髯の老翁が現れ「吾は岩木山権現の神である。汝にこの扇を与えよう。
此れを以て子とするがよい」と告げられました。
守信が扇を手にした途端に夢が覚め、間もなく内室が懐妊、男子が誕生したというものです。
そのため、守信は為信の幼名を「扇」と名付けました。
戦国の動乱期、南部氏の支配下にあった津軽平野で大浦城は孤立していました。
家来の数も300に満たない城に大浦為信が婿養子として迎えられたのが1567(永禄10)年。18歳の時でした。
大浦為信は婿養子ということもあり、信頼できる側近もいなかったのですが、合戦に敗れた落ち武者や流れ者の中から有能な人物を召し抱えることで強力な側近武士団を作り上げました。
杏葉牡丹の使用
戦国時代では公家は官位が高くても無力だったことから、為信は最高官位である関白の座を半ば強請されて豊臣秀吉に譲った近衛前久に見舞いの金品などを贈り、京都の近衛家を訪れ「公の祖父、尚道殿の落胤である」と主張しました。前久はそれを認めて為信を猶子とし、家紋である牡丹にちなんだ杏葉牡丹の使用を許します。このときから為信は大浦から津軽へと姓を改め、形式上ではありますが前久の子となりました。
また、秀吉は関白職に就く手段として、家柄を手に入れるためにいったん近衛前久の猶子となり、藤原の姓を名乗っていたことがあることから、秀吉と為信も形式上とはいえ義兄弟となります。
その縁があってか、為信の長男・信建が大坂城に出仕した際には秀吉の寵臣・石田三成の手厚い庇護を受けることができました。
その一方で次男の信堅、3男の信枚は家康の後継者と目される秀忠の小姓へと差し出しています。これにより後に起こった関ヶ原の戦いの際、信建は大坂城に籠り、為信と信枚は徳川方に味方したため、東西両軍のどちらが勝っても家運を繋げられる策となったのでした。
為信の妻・阿保良姫
為信の母は下久慈(岩手県久慈市)の城主・久慈備前の後妻となり為信を産んだと言われています。
しかし母は久慈備前が死ぬと家督を継いだ先妻の子に家を追われ、14歳だった為信を連れて家を出ました。
母子は縁を頼りに大浦城に身を寄せ、そこで為信は同じ年の大浦為則の娘、阿保良と恋に落ちます。為則は2人の結婚を許し、1567(永禄10)年3月、為信は18歳で婿養子となりました。
さらに2人が結婚した翌月に父の為則が急死したことで、大浦城は為信と阿保良のものとなり、「いつか主君である南部氏をしのぎ、津軽を手にしたい」と津軽統一の野望を共有するようになります。
為信は1571(元亀2)年に南部高信を討ち、ここから為信の津軽攻略が始まります。
勝つためには手段を選ばない為信は賭博場で見つけたならず者83人を手勢に加え、婦女子を襲わせ乱暴の限りを尽くさせました。
家族に気をとられた敵方は戦に専念できずに没落。この出撃に当たり、阿保良はならず者たちに花染めの手ぬぐいに強飯を包んで与えました。
彼らは若く美しい城主夫人からの贈りものに勇んで出陣したと言われています。
また、戦で火薬が不足したとの急報が届くと、大浦城の留守を任されていた阿保良は狼狽える家臣を横目に侍女を集めて錫類の器物を持ってこさせ、
自ら指揮をとって合薬を精製、戦場へと届けさせました。これにより味方の士気は大いに上がったとされています。
阿保良は為信を支え、心をひとつにして歩みました。しかし彼女は為信の子を産めず、津軽の家を守るため、それを側妻に託さねばなりませんでした。
2代藩主・信枚
為信から家督を相続した信枚はお礼言上に江戸城に向かった後、弟子入りするために天海大僧正を訪ねました。そして信枚は自ら天台宗に帰依改宗し、教義を学んで藩内に天台宗の寺院を建立、高弟を迎えて布教に力を尽くしました。
天海はそんな信枚を深く信頼し、後に法嗣として権大僧都寛海の名を与えたほどです。
また、家康の養女・満天姫を正室に迎えたのも天海の推挙によると言われています。
家康没後の1617(元和3)年、日光東照宮が建立されましたが、この東照宮に津軽家が真っ先に城地を持つことが許されました。
これにより万一の場合でも東照宮を盾にすれば幕府さえも手出しができず、徳川の天下が続く限り藩の安泰が約束されました。
そんな折、高岡城が完成してから16年後の1627(寛永4)年、落雷により天守閣が炎上し、翌年3層の櫓を再建し、天守閣としましたがこれを機に城名を「高岡」から「弘前」へと変えました。
この命名は天海によるものであり、天台密教の真言「九字の法」から選んだものとされています。
信枚の2人の妻、辰子と満天姫
関ヶ原の合戦で徳川に敗れ、刑死となった石田三成の遺児が津軽に逃げてきました。
それが信枚の妻となる辰子とその兄です。辰子は召し出されて信枚の妻となり、2人は相愛の仲となりました。
その後本州最北端の津軽を、防衛上非常に重視していた幕府は、津軽家との絆を強固なものとしようと徳川家康の養女・
満天姫を信枚の正室へと送り込みます。
これは津軽家にとっては大変名誉なことですが、関ヶ原の敗者の娘である辰子は身を引くしかありません。
しかし、辰子を捨てられなかった信枚は彼女を利根川流域の大舘(現在の群馬県太田市)に隠し、江戸と弘前を往復する際には必ず大舘に逗留し、後に嫡男が産まれました。
その子が5歳になった1623(元和9)年に辰子は病没しましたが、この間12年、信枚の愛が衰えることはありませんでした。
津軽家を守ることが使命
信枚とは再婚になる家康の姪であり養女の満天姫は、大名家に嫁いだ徳川の女の多くが将軍家の威光を笠に着ていたのに対し、控えめで嫁いだ家を第一に考える女性でした。
子供を連れての再婚でしたが、子は岩見直秀と名乗り、家老の婿養子となります。
津軽家では満天姫に子が授からないことから、辰子が生んだ子を引き取り養育することになりました。
満天姫は辰子の子を元服させ、信義を名乗らせます。信枚が1631(寛永8)年に没すると信義が藩主となり、満天姫は信義の母として津軽家を守ることが使命だと悟ります。
また、最初の嫁ぎ先である福島家の子・直秀の福島家再興運動が信義の害となり、津軽藩の命取りになることを危惧しました。
そして1636(寛永12)年、自重を求めても聞き入れない直秀が、江戸に発とうと母を訪ねてきた9月24日。
どうしても行くときかない息子に満天姫は別れの盃をとらせました。
盃には毒が入っており直秀は絶命、満天姫は腹を痛めて産んだ子を毒殺することで婚家である津軽家を守りました。
三成の血を引く藩主を徳川の女が守ったことで、津軽家は太平な時代を迎えることになります。
略年表
西暦 | 年号 | 主な出来事 |
---|---|---|
1550年 | 天文19年 | 為信誕生。 |
1567年 | 永禄10年 | 為信、大浦為則の婿養子として阿保良と結婚。 大浦城主・大浦為則 没。 |
1571年 | 元亀2年 | 津軽統一の活動開始。 |
1590年 | 天正18年 | 津軽統一。 |
1592年 | 文禄1年 | 4万5千石となる。 |
1593年 | 文禄2年 | 近衛家を訪問し、杏葉牡丹の紋章を許される。 |
1600年 | 慶長5年 | 関ヶ原の合戦に参加。徳川軍につき領地2千石増加。 |
1603年 | 慶長8年 | 高岡に町割りを実施。 |
1607年 | 慶長12年 | 為信、長男・信建 没。3男・信枚が家督相続。 |
1610年 | 慶長15年 | 高岡城築城・完成。 |
1611年 | 慶長16年 | 天海大僧正に帰依、天台宗に改宗。後に権大僧郡寛海となる。 家康の養女・満天姫を正室に迎える。 |
1627年 | 寛永4年 | 落雷により天守閣消失。 |
1628年 | 寛永5年 | 高岡から弘前へと改名。 |
1631年 | 寛永8年 | 信枚 没。信枚の長男・信義が家督相続。 |
1656年 | 明暦2年 | 信政襲封。 |
1694年 | 元禄7年 | 実総石高29万余石、村数825。 |
1710年 | 宝永7年 | 信政 没。信寿襲封。 |
1731年 | 享保16年 | 「津軽一統志」完成。 |
1805年 | 文化2年 | 黒石藩誕生。 |
1867年 | 慶応3年 | 藩主に上洛の朝命。家老・杉山を名代に上洛。 |
1868年 | 明治1年 | 藩主・承昭が奥羽触頭を命ぜられる。 |
1869年 | 明治2年 | 版籍奉還。 |
1871年 | 明治4年 | 廃藩置県で弘前、七戸、八戸、斗南、黒石の5県を置く。 弘前県を青森県と改め、県庁を青森に移す。 |