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埋門とは、石垣などの間に築かれる裏門の一形式で、1676年(延宝4年)の規定によると普段は扉を閉めていました。
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この地には弘前城築城当初、5層の天守がありました。しかしこの天守は1627年(寛永4年)、火事(落雷が原因とも言われています)により焼失してしまいます。
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この御宝蔵には、青山と呼ばれた琵琶や、小野小町が持っていたと伝えられる琴があったといわれています。
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1673年(寛文13年)の絵図面に記載が見られますが、1680年(延宝8年)に建設されたとも言われています。
1691年(元禄4年)には屋根が瓦葺であったと伝わっています。
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籠城の際の生命線となる井戸の跡です。弘前城の絵図面によれば、本丸内にはこの他にも数か所の井戸があったことが分かっていますが、現在その跡が確認できるのはここだけです。
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この礎石に玄関の柱が建てられていた。御殿は日常の事務を行う表と、藩主が政務を行う中奥、藩主の日常生活の場の大奥に大別されます。
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弘前藩庁日記と呼ばれる日記は、1661年(寛文元年)に4代藩主津軽信政の初入部以降、明治に至るまで綿々と書き続けられ、津軽藩政のみならず近世幕藩体制を知る重要な史料となっています。
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長勝寺構の黒門と同様の高麗門形式で、門扉は2枚扉になっていたといいます。門の内側には番所があり、さらに門の両脇に袖塀があったことが古い写真からわかっています。
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場内で時間を知らせるために太鼓を打ち出した場所で、1686年(貞享3年)にはじめられたと言います。
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築城当初は北門(亀甲門)が城の表玄関で、ここにあった賀田御門は、三の丸の北門として旧賀田城(岩木町大浦城)の大手門を移築したと伝えられています。
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