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弘前藩初代藩主である津軽為信が、主家である南部氏からの独立を果たし津軽地方を統一し、現在の弘前の地を選定しました。当時、この地は旧名の高岡(鷹丘)と呼ばれていました。
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歴代の藩主は、この櫓から三の丸を通る弘前八幡宮の山車行列などを観覧したと伝わっています。
櫓の名前は、天守から見た方角を12支で示したもので、辰巳は南東に当たります。
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城郭に取りつく敵への攻撃や、物見のために造られました。防弾・防火のために土蔵造りとなっています。
櫓の名前は、天守から見た方角を12支で示したもので、未申は南西に当たります。
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軒下や出格子の木部は素木のままで飾り気がありませんが、独特の美しさを見せてくれます。
櫓の方角は12支を示したもので、丑寅は北東に当たります。
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上級武士に仕えていた人々のことを与力といい、その与力が見張り役として警備をした詰所(番所)を与力番所といいます。
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弘前公園の正面玄関とも言えるのが、この追手門。
全体的に簡素な素木造りとなっていて、戦国時代の古い形式を残すものとして全国の城郭建築の中でも珍しいものとされています。
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弘前公園に現存する5つの櫓門のうち、他の4つの門は昭和12年(1937)年に重要文化財として指定されました。
しかしこの東門のみ、昭和28年(1953年)の指定となっています。
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北方の守護神として玄武という亀の神様がいたとされており、
北側にある門の別名が亀甲門とされたのは、この伝説に由来していると言われています。
築城後間もなくはこの門が弘前城の正門とされていました。
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三の丸東門から本丸に向かうと、ほぼ一直線上にあるのがこの東内門です。
南内門とともに、二の丸に現存する2つの城門となります。門をくぐって本丸を眺めるとすぐ、天守の姿が目に入ってくるでしょう。
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さくらまつりの時期は、この門をくぐって二の丸から本丸に向かって進んでいくと、
満開の桜の海の中に真っ白な天守と真っ赤な下乗橋が徐々に浮かび上がってきます。お勧めスポットの1つです。
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