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弘前城の外周、三の丸と四の丸を囲む濠です。
入り口としては市民会館口・追手門口・東門口・中央高校口・北門口があります。
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二の丸と三の丸を隔てるのが、この中濠です。中濠には杉の大橋と石橋の2つの橋がかかっています。
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本丸、二の丸、北の郭をそれぞれ隔てる濠です。二の丸から本丸へは下乗橋が、北の郭から本丸へは鷹丘橋がかかります。
周囲が石垣で組まれているため独特の趣きがあります。
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西濠は、もともと築城時には岩木川の支流を引きこんだものでしたが、現在は岩木川と独立しています。
両岸の沿道にはたくさんの桜が植樹されていて、「桜のトンネル」と呼ばれる通路が伸びています。
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本丸の西の防御のために岩木川の河岸段丘の崖下に備えられた濠で、崖上の本丸との標高差は17メートルにおよびます。
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本丸の西の防御のために岩木川の河岸段丘の崖下に備えられた濠で、崖上の本丸との標高差は17メートルにおよびます。
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岩木川の河岸段丘沿いに築かれた平山城である弘前城は、場所によって高低差が生じます。そのためいくつかの箇所には、水位を調整するための水戸違いというダムの役割を果たす仕掛けが施されています。
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この橋は、戦になると敵の侵入を防ぐため壊される架け橋でした。そのため、壊すにしても焼き払うにしても、柔らかく燃えやすい性質を持ったスギが用いられたと思われます。
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藩政時代、二の丸側には下馬札が置かれ、藩士は馬から降りるよう定められていました。下乗橋の名は、そのことに由来すると思われます。
藩政時代は、戦になると敵の侵入を防ぐため壊される架け橋でした。
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弘前城は、1628年(寛永5年)に改称される以前は、鷹丘城(高岡城)と呼ばれていました。
鷹丘橋は、4代藩主信政)が母の屋敷のある北の郭を行き来するために架けたとされます。
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