弘前城 天守 / 御三階櫓 (ヒロサキジョウ テンシュ / ゴサンカイヤグラ)

更新日:2012年04月03日(火)

東北で唯一の江戸時代から残る弘前城の天守

弘前城天守

弘前藩初代藩主である津軽為信が、主家である南部氏からの独立を果たし津軽地方を統一したのが1588年(天正16年)のことでした。
その後、為信は津軽地方を治めるために新たな城を築くことを決意し、現在の弘前の地を選定しました。これが1603年(慶長8年)のこととされています。当時、この地は旧名の高岡(鷹丘)と呼ばれていました。

本丸から見た天守

築城の計画

築城計画はなかなか進まず、為信は完成を見ることなく1607年(慶長12年)、京都にて客死します。
父の遺志を継いだ第2代藩主信枚が高岡城を完成させたのは、1611年(慶長16年)のことでした。完成当初、高岡城には5層の天守がそびえていました。現在、本丸未申櫓跡となっている石垣が、当時の天守台であったのです。

しかし1627年(寛永4年)、この5層の天守は火事により失われてしまいました。土地の旧名である高岡が、現在の弘前に改められたのはその翌年のことで、これには魔除けの意味がこめられていたと言います。

そして現在へと至る天守

その後、長らく弘前城は、天守を持たぬ城となりました。これは、幕府から弘前藩に対し天守新造の許可が下りなかったためだと言われています。
現在残っている3層の天守は、1810年(文化7年)に弘前藩第9代藩主寧親の治世に築かれました。その当時、現在の場所にあった本丸辰巳櫓を解体して新造されたものとされています。

幕府から天守新造の許可が下りた理由としては、この数年前に弘前藩が蝦夷地(北海道のこと)警備の任にあたってその功績が認められたことや、当時、ロシア船が津軽海峡を往来し、その防備のため、という説が一般的です。
また、この建物はあくまで天守の代用であって、当時は「御三階櫓」と呼ばれていた、とも言われています。

弘前城天守
弘前城天守の看板

現在の天守

建築年こそ新しいものですが、濠側の東・南両面には鉄扉を付けず、矢狭間だけとし、また1・2層にはその中央に張り出しをつけ、切妻破風・石落としを設けるなど、古形式を特徴としています。
また、5間×6間の初層平面に対し、2層、3層と各一間ずつ小さくなる層等式の建築となっており、二の丸側から天守を見た時、切妻破風と狭間によってその印象を大きく見せようとする工夫が凝らされていると言われています。

一方で、本丸内側から見た北・西両面には破風も狭間も無く、採光を考えて窓も大きくされています。 江戸時代に建築され現存する天守としては、東北地方唯一のものであり、小規模ではあるものの、全国の天守の中でも代表的なものとされています。

現在は弘前城史料館として、藩政時代の史料・資料が展示されています。見学は無料ですが、本丸への入場料金が別途必要になります。
館内には、歴代藩主が使用した駕籠や小道具、調度品の他、刀や槍、鉄砲や大筒などが展示されています。

<看板内容>

弘前城は津軽を統一した津軽為信が計画し、二代藩主信枚が慶長十六年(一六一一)に完成させた。
当初の天守は五層で本丸西南隅に構築されていたが、築城から十六年後の寛永四年(一六二七)に落雷により焼失した。
現在の天守は、江戸時代末期の文化七年(一八一〇)九代藩主寧親により、本丸辰巳櫓を解体新造したものである。
建築年代は新しいが、濠側の東・南両面には鉄扉窓をつけず、矢狭間だけとし、また、一・二層にはその中央に張り出しをつけ切妻破風、石落としを設けるなど子形式になっている。
江戸時代に建築され、現存する天守としては、東北地方唯一のものであり、小規模ではあるが、全国の城郭天守の中でも代表的なものである。

基本情報

場所 本丸(有料区域内)
建築年代 文化7年(1810年)
9代藩主 津軽寧親
指定年月日 昭和12年7月29日
棟高 16メートル
本丸入場料金 大人:310円/子供:100円
団体(10名以上)の場合
大人:250円/子供:80円

位置


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下乗橋から見る弘前城天守

下乗橋から見る天守

この方角から天守を眺めると、戦国の世を今に伝える古風な切妻破風や狭間の仕掛けによって、小ぶりなその見た目をとても美しいものにしています。
初めて弘前公園を訪れた人たちにとっては、絶好の写真撮影スポットとなっています。
特にさくらまつり期間中は、朱塗りの欄干に満開のピンクの桜が、石垣の上にそびえる天守にことのほか映えるため、大勢の観光客でごった返します。
まさに、弘前公園を代表する景観であると言えるでしょう。


弘前城の窓と石垣

窓と石垣

弘前城の天守の北・西両面は、切妻破風や狭間の仕掛けが無いため、南・東両面の優雅な外見と比べて、簡素な印象を受けます。彩光のために窓も大きく開けられています。
なお、天守の載る石垣(天守台)は、石を方形に切り出してすき間のないように工夫した、切込み接ぎという方式が採用されています。
本丸と北の郭では、全国の城にある石垣積み方をほとんど全部見ることができます。


弘前城の鯱(しゃちほこ)

姿は魚で頭部は虎

弘前城の天守の三層目の屋根には、今もが残ります。鯱とは、姿は魚で頭部は虎、尾ひれは常に空を向き、背中にはいくつもの鋭いトゲを持っているという想像上の動物です。
口から水を吹き出すという特徴があったため、特に城郭建築では火事への備えとして、屋根の上に設置されました。

しかし、かつての五層五重の弘前城天守が消失する原因となった雷は、その屋根に設置されていた鯱に落ちたためという説もあり、これが事実とすれば防火のための備えが火事を招いたということで、皮肉な話です。

こぼれ話

弘前城天守が簡素な造りの理由

役人を欺く簡素な造り

天守閣の北・西両面が簡素な造りとなっているのは、幕府の目を欺くためともいわれています。
藩は代替天守とはいえ、なんとか格好のつく天守閣を建てたいと考えていました。しかし、あまりに立派に造っては幕府から咎めを受ける恐れがありました。藩は思い悩んだ末、打開策を見出します。それは、二の丸から見える面には装飾を施し、本丸から見える面は簡素な造りに留める、というものでした。

天守閣が完成し、幕府の役人が駕籠に乗って監査にやって来ました。
藩は役人を駕籠に乗せたまま、二の丸から下乗橋を渡り本丸へと案内します。この間、役人は装飾された東・南両面を見ることができません。
そして天守閣に到着した役人は、飾り気のない北・西両面だけを目にすることになります。役人は簡素な造りの代替天守を見て、問題ないと認可を下したのでした。

※以上の話はあくまで一説であり、どこまでが真実かはわかりません。

周辺施設・スポット

御滝桜

弘前城の桜「御滝桜」

この樹は、石垣の上から水面に向かい長く枝を垂らしており、故棟方志功画伯が「御滝桜」と命名した名木です。
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鶴の松

弘前城の松「鶴の松」

鷹揚園内随一の名木です。
老鶴形に仕立てられた美しく優雅な形をしているところから「鶴の松」と呼ばれています。

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下乗橋

弘前城の橋「下乗橋」

江戸時代は、藩主以外のものはこの橋から下馬しないと本丸に進むことができませんでした。橋を渡った先には武者屯門という門がありました。

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武徳殿休憩所

弘前城「武徳殿休憩所」

武徳殿は、柔剣道の練習場として明治末期に建設されたものです。現在は土産物店や喫茶店などになっています。

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最寄りの出口

弘前城「追手門口」出入口

追手門口

追手門が弘前城の正面玄関と呼ばれるように、ここから入城するのがスタンダードといえます。
追手門口の付近には、路線バスと100円バスの停留所があり、タクシーの停車場もあるため交通の利便性に優れています。交差点向かいの「市立観光館」には駐車場があるため、車で来城される方もここからの入城が便利です。
市役所の駐車場は、さくらまつり期間中(4月23日~5月5日)に臨時駐車場となります。

最寄のトイレ


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南口券売所前トイレ

本丸内、下乗橋を渡った先の南口券売所付近にあります。
トイレの標識は、人々に解りやすい標識でありながら、公園の景観を損なわないデザインになっております。

櫓一覧

弘前城天守

天守/御三階櫓

江戸時代に建築され現存する天守としては、東北地方唯一のものであり、 小規模ではあるものの、全国の天守の中でも代表的なものとされています。

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弘前城「辰巳櫓」

辰巳櫓

歴代の藩主は、この櫓から三の丸を通る弘前八幡宮の山車行列などを観覧したと伝わっています。

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弘前城「未申櫓」

未申櫓

城郭に取りつく敵への攻撃や、物見のために造られました。未申は南西に当たります。

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弘前城「丑寅櫓」

丑寅櫓

城郭に取りつく敵への攻撃や、物見のために造られました。丑寅は北東に当たります。

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弘前城「与力番所」

与力番所

与力番所とは、場内の主要な箇所の見張り所として配置されたものです。

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