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弘前藩庁日記と呼ばれる日記は、1661年(寛文元年)に4代藩主津軽信政の初入部以降、明治に至るまで綿々と書き続けられ、津軽藩政のみならず近世幕藩体制を知る重要な史料となっています。
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長勝寺構の黒門と同様の高麗門形式で、門扉は2枚扉になっていたといいます。門の内側には番所があり、さらに門の両脇に袖塀があったことが古い写真からわかっています。
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場内で時間を知らせるために太鼓を打ち出した場所で、1686年(貞享3年)にはじめられたと言います。
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築城当初は北門(亀甲門)が城の表玄関で、ここにあった賀田御門は、三の丸の北門として旧賀田城(岩木町大浦城)の大手門を移築したと伝えられています。
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西の郭には、西側の土塁に沿って御馬場や御矢場が作られたほか、各地の珍しい植物を植えた「御花畑」などがあったと伝わっています。
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