惣構(ソウガマエ)
場所:旧・弘前城下町全域
弘前の城下一帯を城郭と見立て、濠や土塁で囲い込んだ防衛施設をいいます。
弘前城の惣構は、東側から南側には土淵川、北側には土淵川の支流である階堰こと堀川、岩木川に流れ込む田堰の両河川、西側には岩木川と、四方の河川が城を守ります。
弘前城の惣構が持つ特色は、1610年(慶長15年)から1615年(元和元年)、2代藩主
寺社を活かして
城の守りを固めるために領内各所に点在した寺社を、城下へ移動し、集中させ、地形を変えてしまうほどの大規模な工事が施されました。八幡宮を北東へ、誓願寺を西方へ、長勝寺を西南へと、藩祖為信が拠点とした大浦城周辺の多くの寺社を、弘前城周辺に集めました。
信枚の考えた都市計画の特徴は、城の周囲を寺社の配置で囲み、長勝寺構に見られるような、各寺社を惣構内の防衛拠点として活用したところにあります。
惣構は、高岡城(後の弘前城)築城と同時期に相次いで造成され、藩政時代の都市計画を現代に伝えている貴重な遺構として、国指定史跡となっています。
長勝寺構(チョウショウジガマエ)
場所:禅林街 付近
弘前城の西南、現在の禅林街(※1)一帯をいいます。
1610年(慶長15年)、弘前城建設に着手した2代藩主
同年、長勝寺(※2)を城下西南の要衝(裏鬼門)に移築しました。
1612年(慶長17年)、信枚は長勝寺がある城下西南の要衝に、曹洞宗の寺院を集結させ、禅林街の建設に着工しました。
山を切崩す大工事
1615年(元和元年)1月~6月、城の南方に位置する重森山(現在の茂森町)が、弘前城よりも高い位置にあるため城が丸見えとなっていました。防衛上の問題からこれを嫌った信枚は、1日1000人の人夫を動員して、山を切崩す大工事を行いました。
そして同年3月、長勝寺門前と重森山の間に濠を造って土塁を盛り、禅林街の入口には枡形を設け、敵の直進を防ぐ工事を行いました。
工事が終わると、領内各所から城下へ寺院の移動が進み、三十三ヵ寺(曹洞宗)による禅林街を構成しました。
禅林街のように、江戸時代初期に構成された同一宗派の寺院街は全国でも例がありません。
濠と土塁
禅林街の一帯は濠と土塁で整備され、藩政時代は長勝寺構と呼ばれました。
長勝寺構は、城の西南の押さえとして守りに用いられる一方、城が落ちたときは逃げ込む場所として造られたとされます。
今では、藩政時代の貴重な遺構として国指定史跡となっています。天満宮から
※1:禅林街とは、禅寺が林のように並んでいることからそう呼ばれるようになったとされます。
また禅林街の三十三という寺の数は、道元禅師が最も尊重した法華経、その普門品(観音経)にある光輝く三十三の菩薩たちに由来しています。
※2:長勝寺とは、山号が太平山の曹洞宗であり、津軽家最初の菩提寺です。
また、日光東照宮と並び称される江戸時代初期の代表的な建造物です。
1528年(亨禄元年)に建設され、1610年(慶長15年)、弘前城の築城とともに現在の場所に移されたとされます。
新寺構(シンテラガマエ)
場所:新寺町 付近
弘前城の南方(現在の新寺町一帯)をいいます。
1611年(慶長17年)から1613年(慶長19年)にかけて、2代藩主
四神相応の地
弘前城には、四神相応の地(※1)でいう南の
南溜池一帯の守備
1649年(慶安2年)、寺町(現在の元寺町)にあった十五ヵ寺が火災により焼失、1650年(慶安3年)、3代藩主
最勝院五重塔
1956年(明暦2年)、京海が津軽統一戦争での戦死者の供養を発願し、信義は京海のために大円寺五重塔の建設に着工しました。
1667年(寛文7年)、4代藩主
現在は明治の神仏分離令により、大円寺は南津軽郡大鰐町へと移り、かつての大円寺の場所には最勝院があります。大円寺五重塔は最勝院五重塔へと形を変え、今なおそのたたずまいを見せます。
新寺構は、2代藩主信枚から4代藩主
※1:四神相応の地とは、風水思想でいう、東に