弘前公園について

広大な敷地面積の公園

弘前公園

弘前公園(別名:鷹揚公園鷹揚園)は、弘前市の中心部に位置する、総面積約49万2000平方メートル(約14万9000坪)にも及ぶ公園です。
その敷地はもともと、藩政時代に弘前藩10万石を治めた津軽家代々の居城であった、弘前城が基になっています。

弘前城、その築城までの経緯

弘前城

独立、そして統一

弘前藩初代藩主である津軽為信が、主家である南部氏からの独立を果たし津軽地方を統一したのが1588年(天正16年)のことでした。
その後、為信は津軽地方を治めるために新たな城を築くことを決意し、現在の弘前の地を選定しました。これが1603年(慶長8年)のこととされています。
当時、この地は旧名の高岡(鷹丘)と呼ばれていました。

弘前城 天守/御三階櫓 について詳しく見る

築城後の弘前城

総構

破格の規模の理由

岩木川の河岸段丘上に築かれた弘前城は、本丸をはじめ6つの曲輪で構成されました。本丸南西の五層五重の天守をはじめ多数の櫓と門を備え、石垣と土塁で防備を固め、周囲に水濠と空濠を巡らし、岩木川そのものも濠の一部とすることで、弘前城は万全の防御態勢を整えていました。
さらに城の外側も、禅宗の寺院を一か所に集めて出城とした長勝寺構や、五重塔を見張り台とした新寺構などを要所に形成し、城下町そのものをひとつの城とする「惣構」という仕組みが立てられていました。

これは、東北のはるか片隅に位置する外様の小大名の居城としては破格の規模でした。
幕府が津軽家にこれだけの城を築かせることを認めたのは、信牧の正室である満天姫が神君徳川家康公の姪で養女だったためだとも、津軽家をして南部、佐竹、伊達などの有力な東北の外様大名を牽制させるためだった、とも言われています。

旧天守(本丸未申櫓)跡

天守の焼失と造営

寛永4年(1627年)、本丸南西の5層天守は落雷により発生した火事によって焼失します。土地の旧名「高岡」が、現在の「弘前」に改められたのはその翌年のことで、これには魔除けの意味がこめられていたと言います。
その後、弘前城は長い間、天守を持たない城となりました。これは、幕府が定めた武家諸法度により天守の新造の許可が得られなかったためだと言われています。

しかし文化7年(1810年)、ロシア船の津軽海峡往来などの事態から、幕府は弘前藩に蝦夷地(北海道)の警備を命じ、あわせて新しい天守の造営を認めたのでした。
弘前藩は、当時本丸にあった辰巳櫓を改築しました。すなわち、これこそ今に残る弘前城の天守なのです。

津軽家の城から、弘前市民のシンボルへ

御宝蔵跡

そして近代化へと・・・

やがて明治維新により、江戸幕府は倒れ、日本は近代化の道を歩んでいくことになります。当然ながら弘前藩も解体され、明治4年(1871年)には弘前城も、兵部省、後には陸軍省の管轄となります。この時、本丸御殿玄関礎石や宝物蔵、籾蔵、武芸所などの施設は解体されましたが、天守や城門、櫓は保護されました。

公園として開放開始

明治28年(1895年)には、陸軍火薬庫・兵器廠として使用された三の丸を除いた区画が、公園として弘前市民に開放されました。
以後、第二次大戦の戦災もまぬがれた弘前公園は、市民の憩いの場として、そして津軽地方の観光の中心地として全国から多くの人が集う名所となり、今に至っているのです。

弘前さくらまつり

四季折々、イベントが開催

園内には、天守をはじめ今も藩政時代の面影を残す櫓や城門などの遺構が残されています。これだけの規模の城郭が史跡ごと、往時の姿を留めつつ公園として開放されている例は、全国でもあまり見ることがありません。
現在では、春には日本一の呼び声高い桜祭りが、秋にはお濠や天守の白壁も真っ赤に染める紅葉まつりが、そして冬には巨大雪像やミニかまくらも多数作られる雪灯籠まつりが催され、夏に市内を運行するねぷた祭りとあわせて、四季を通じたイベントの舞台となっています。

岩木山と並んで、弘前市民のシンボルである弘前公園。
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