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弘前さくらまつり(観桜会)の歴史

弘前公園に桜が植えられたのが1715(正徳5)年、藩士が京都の嵐山からカスミザクラなどを持ち帰ったのが始まりだといわれています。その後、明治に入って荒れ果てた城内に1000本のソメイヨシノが植栽され、一部の士族から「城を行楽の地にするとは何事か」と引き抜かれることもありましたが、やがて明治維新の混乱も収まり1895(明治28)年には弘前城跡が公園として一般開放されました。

その後もソメイヨシノの植栽は続き、大正時代には弘前公園は見事な桜で埋め尽くされ、1918(大正7)年からは「観桜会」が始まりました。1961(昭和36)年からは「観桜会」から「弘前さくらまつり」へと名称を変え、現在ではソメイヨシノを中心にシダレザクラ、八重桜など50を超える品種の桜が園内を埋め尽くしています。

世界に誇る桜の名所・弘前公園の桜 植栽の始まり

始まりは藩士が京都の嵐山から持ち帰った25本のカスミザクラ

弘前城に最初に桜が植えられたのが1715(正徳5)年。弘前藩士が京都の嵐山から25本のカスミザクラなどを持ち帰ったのが始まりだと伝えられています。
そして時代は移り1871(明治4)年の廃藩後、城跡(後の弘前公園)が荒れ果てたのを見かねた旧藩士の内山覚弥が1880(明治13)年に自費で桜20本を植えたとされています。その2年後の1882(明治15)年、同じく旧藩士の菊池楯衛は、当時ではまだあまり知られていないソメイヨシノ(吉野桜)を1000本寄贈、植栽しました。しかし明治維新後で混沌としていた当時、「お城を行楽の地にするとは何事か」と植えた苗木が折られたり、引き抜かれることもありました。

弘前さくらまつり(観桜会)の歴史
弘前さくらまつり(観桜会)の歴史

その後、明治維新の混乱も収まった1895(明治28)年に弘前城跡が弘前公園として一般公開されるようになりました。菊池の試みが頓挫したことを受け、内山は再び桜を植えることを決意。内山は市議会議員の任期中も桜の植樹を主張し続けました。その働きにより1901(明治34)年から1903(明治36)年の3年間、大正天皇の結婚記念としてさらに1000本のソメイヨシノが植栽されました。

弘前さくらまつりの先駆け 観桜会の開始

大正時代になると明治期に植えた桜が咲き誇るようになりました。当時の若者たちが結成した「呑気倶楽部」は、弘前の桜を全国に紹介したいと考え、1916(大正5)年、東京から活動写真(映画)の技師を呼んだり、公園内に出店を置いたり、仮装や囃子とともに市中パレードに繰り出し花見の宴を開催しました。アーク灯やイルミネーションをつけての夜桜見物も話題を呼びました。
その2年後の1918(大正7)年5月3日、弘前商工会が主催となって第1回観桜会(かんおうかい。地元では”かんごかい”とも呼ばれていた)が開幕。山車・自転車競走・相撲大会・花火の打ち上げなどさまざまな余興が繰り広げられました。さらに翌年の1919(大正8)年には喫茶店や食堂、花見団子屋や見世物興行などが始まり、近隣の村からも多くの花見客が訪れるように。1921(大正10)年には天守にイルミネーションが施され、夜遅くまで観桜会を楽しむ人で賑わうようになりました。

「観桜会」から「弘前さくらまつり」と改称

昭和に入り、夜のイルミネーションが投光器に替えられてからは天守閣や城門がこれまでよりさらに明るく照らされ、春の夜空を彩るようになりました。大正期から行われていた「観桜会」は太平洋戦争が始まってからも続けられていましたが、1944(昭和19)年から一時中断され、再び開催されるようになったのは1947(昭和22)年のことでした。その後も桜は寄付され、1956(昭和31)年には元市議会委員の福士忠吉がソメイヨシノ1300本を寄贈、外濠もすべて桜で埋め尽くされ、現在の弘前公園の桜の姿が整えられました。さらにこの年から観桜会のポスターを版画の巨匠・棟方志功に依頼し、1970(昭和45)年までに6枚のポスターが描かれました。
1961(昭和36)年には「弘前さくらまつり」と改称され、翌年には会期が4月22日から5月5日に固定されました。会期は、その後花の咲き具合を受け変化し、1994(平成6)年からは暖冬続きによる早咲きを受け、毎年4月23日から5月5日までの13日間としています。(桜の咲き具合によって会期の前後に準まつり期間を設けている年もあります。)

約200万人以上が訪れる国内有数の桜の名所へ

1989(平成元)年、市制施行100周年を記念し「全国さくらシンポジウム」を開催。また、美しい弘前公園の管理を目的に、さくらまつり期間に限り本丸と二の丸の有料化がスタートしました。1995(平成7)年には弘前公園が開園100周年を迎え、記念イベントが行われました。2003(平成15)年からは弘前公園の本丸と北の郭が通年で4月から11月の間有料化されるようになりました。

弘前さくらまつり(観桜会)の歴史
弘前さくらまつり(観桜会)の歴史

2018(平成30)年には開会式に航空自衛隊ブルーインパルス弘前観桜会100周年祝賀飛行を行うなど、弘前さくらまつり100周年の記念イベントが様々取り行われました。2020(令和2)年は、大正7年の第1回観桜会から数えて弘前さくらまつり100回目を迎えました。(※2020年は新型コロナウイルス感染症対策のため、さくらまつりは中止に)

会期中は約200万人が訪れ、国内有数の祭りへと発展を遂げています。

桜と弘前さくらまつりの歴史

1715年/正徳5年 弘前藩士が京都の嵐山から 25本のカスミザクラを持ち帰ったのが始まりだとされる
1880年/明治13年 内山覚弥が桜 20本を植栽
1882年/明治15年 菊池楯衛がソメイヨシノ(吉野桜)を 1,000本植栽
1895年/明治28年 弘前城跡が弘前公園として一般公開
1903年/明治36年 1901(明治 34)年からの 3年間で内山覚弥の働きによりさらに 1,000本のソメイヨシノが植栽
1916年/大正5年 呑気倶楽部が仮装行列や花見の宴を実施、本丸にアーク灯をともし夜桜見物が始まる
1918年/大正7年 弘前商工会主催の第1回観桜会
1919年/大正8年 出店や見世物興行などが始まる
1922年/大正 11年 県外へ宣伝するため奥羽本線秋田方面各駅に宣伝ビラが配布される
1938年/昭和13年 観桜会の名称を「時局と桜の催し」と改称
1940年/昭和15年 観桜会の名称を「弘前の桜」と改称
1943年/昭和18年 観桜会の名称を「桜愛護会」と改称
1944年/昭和19年 戦時色が強まり 1946(昭和 21)年までの 3年間、観桜会開催が中断
1947年/昭和22年 「弘前観桜会」復活
1956年/昭和31年 福士忠吉がソメイヨシノ 1,300本を新たに植栽、棟方志功がポスターを製作、第1回桜姫コンテスト(現:弘前城ミス桜コンテスト)開催
1961年/昭和36年 「弘前さくらまつり」と改称
1984年/昭和59年 第1回弘前城ミス桜コンテスト開催
1989年/平成元年 弘前公園の一部区域有料化
2008年/平成20年 さくらまつりの人出が過去最高 292万人を記録
2015年/平成27年 弘前城天守曳屋工事
2016年/平成28年 弘前城石垣解体工事着手
2017年/平成29年 さくらまつり 100年目
2018年/平成30年 さくらまつり 100周年
2020年/令和2年 さくらまつり 100回目

出典「広報ひろさき(令和2年1月1日号 No.333)」

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