東北で唯一の現存天守 弘前城

弘前城の魅力にせまる!

為信津軽統一~弘前城築城

1590(天正18)年、17年に渡って津軽地方の統一を成し遂げた大浦為信が、豊臣秀吉から4万5千石の領地を得ました。この時大浦を津軽と改姓し、為信は、1594(文禄3)年4月に大浦城から堀越城に移り、藩の基礎作りを開始。
1600年、為信は関ヶ原の戦いで東軍に付き、徳川家康より更に2千石の加増を受け4万7千石の弘前藩が成立しました。1603(慶長8)年には徳川幕府の成立とともに高岡(現在の弘前)に新たな町割りを行い、次々と領地の開拓を進め、城の築城計画しますが、1604(慶長9)年 為信は京都で客死し、築城は中断します。
1609(慶長14)年 2代目信枚が、築城を再開し、堀越城、大浦城の遺材を転用し急ピッチでの築城を行い、1611(慶長16)年、 僅か1年と数か月で弘前城が落成しました。

弘前の歴史はこちらでも知ることができます。

弘前公園の歴史はこちら

まさかの落雷!燃え上がる城

1627年(寛永4年)、弘前城天守(当時は五層の大天守)の鯱に落雷。五層目から順に燃え広がり、吊されていた鐘が熱で真っ赤に燃え、その灼熱の鐘が地下の火薬庫まで焼け落ち、火薬に引火し大爆発をおこしたと伝えられています。弘前城が爆発した際の火柱は約20km程離れた碇ヶ関からも見え、飛散物は8kmほど先まで飛んでいったそうです。

他にもある!落雷したお城

1602年(慶長7年)~1854年(嘉永7年)の間、金沢城の天守が落雷で焼失したことを始めとし、約14箇所が被害にあいました。

天守、もしくは天守相当の櫓が落雷にあって焼失したお城

弘前城、盛岡城、大坂城、村上城、相馬中村城、八代城、鳥取城、津和野城、二条城、淀城、岸和田城、和歌山城、佐伯城、伊予松山城

当時の天守は、倉庫として使用されていたことが多かったそうで、なかでも弘前城は武器・火薬庫として使用していたため、被害が大きかったそうです。

200年待ち!?執念の城再建

武家諸法度により、自由に城を築くことも、5層以上の天守閣の建築も厳しく制限されていた為、天守は再建されず櫓で代用され、弘前城は約200年も天守がないままの状態が続きました。
津軽藩九代藩主寧親(やすちか)が1810年、蝦夷地警備の功によって、石高が昇格したのを契機に天守櫓移築という名目で幕府の許可を取り、隅櫓を改造する形で新築され完成したのが、西南隅に三層を成し御三階櫓(ごさんかいやぐら)と称される現在の天守です。なお雷により焼失した五層の天守は本丸南西部を守っていた櫓で現在は石垣のみが残されています。

偽りの願い出?願書の不思議

天守「櫓」移築という名目で出された願書。出された書類には、新築ではなく、領内・海辺も見通すことが可能なため櫓台の改築が必要である(実際建てられた場所から海辺を見渡すのは不可能)、と書かれていました。現在の「天守」はこの願い出により作られたものですが、弘前藩からの願書や、改築を許可した資料の中に「天守」という文字はなく、実は幕府が許可したのは1627年に焼失した「櫓」の再建であり、「天守」の新築は認めていませんでした。
幕府は長い間城郭修築を規制していたので、弘前藩には何か抜け道となる理由が必要でした。当時、重要な政策課題とされていた海防問題と関連付けることで説得力が得られると弘前藩は期待し、旧来の「櫓」を再築し、海への眺望を確保するという名目を立てたと考えられています。

再建へのおもい

長い間シンボルともいえる天守を失っていた弘前城。長い年月の間に、戦闘施設から権力の象徴へと城の在り方も変化していきました。また寧親は改革の為に莫大な出費を重ね、領民に重税を課しました。天守の再建は、領内の支配を高めるために行われたとも言われています。

弘前城築城までの流れ

1491(延徳13)年 大浦光信が南部領久慈(現岩手県久慈市)から津軽に入り、種里城(鯵ヶ沢)を築城
1502(文亀2)年 光信が大浦城(賀田城)を築城
1550(天文19)年 為信誕生
1560(永禄3)年 桶狭間の戦い
1567(永禄10)年 為信が大浦城主為則の婿養子となり宗家を相続、大浦城に拠点
1571(元亀2)年 為信が石川(弘前)城を攻略、津軽統一の足掛かりに
1594(文禄3)年 為信が大浦城から堀越城へ移る
1596(文禄5)年 為信が浅瀬石(黒石)城を攻略、津軽統一
1604(慶長9)年 為信、京都で没(58才)。三男信枚が家督を継ぐ
1610(慶長15)年2月 高岡城(現弘前城)の縄張り、町割り広まる
6月 高岡城を築き始める
1611(慶長16)年5月 高岡城ほぼ完成、堀越から移る
1627(寛永4)年 高岡城が雷火で天守閣消失
1810年 9代寧親が天守閣再建に着手
1811年 現在の天守閣完成

津軽為信(1550~1608)

津軽為信
永禄10年(1567年)、大浦為則の養子となり、大浦氏を継いで大浦城主になる。南部氏に属していたが、反旗を翻して同僚達を追い落として自領を確保した後、津軽を統一、名を大浦為信から津軽為信に改めた。

津軽為信についてはこちらでも知ることができます。

津軽為信についてはこちら

弘前城
弘前城宝物庫

知っていますか?天守の違い

天守は時代の流れによって形式に変化が見られます。
大別すると、「望楼型天守」と「層塔型天守」という種類に分かれ、その中でもそれぞれ前期後期に分かれます。他に「復古型天守」というものもあります。

◎望楼
最上階に回廊・欄干を設け、屋外を展望できる作り
◎層塔
欄干を取り払い、すっきりした端正で威厳がある作り

弘前城は?

幕末に近い文化8年に建てた天守ですが、成熟期の後期層塔型
つまり、建築当時から200年前の天守の型にさかのぼって作られました。

年代順天守 型の流れ

前期望楼型 関ヶ原の戦いまで
後期望楼型 関ヶ原の戦い~大阪夏の陣まで
前期層塔型 後期層塔型までの間に発生
後期層塔型 元和期~寛永期まで、以後なし
復古型 前・後期層塔型の時代に出現